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山形県で総合診療医を目指しています。日々の振り返りをご笑覧ください。

教育とビジネスと愛

教育のあり方について自分なりに腑に落ちたことをまとめてみます。
 
この1年は教育について深く考える機会に恵まれました。
faculty developmentを学び、教育の大切さを知り、改めて教育に関わりたいなと思いました。
 
faculty developmentのコースで最後に課題図書として紹介されたのが、「街場の教育論/内田樹」。内田先生の様々な論理が溢れている本ですが、その中で考えさせられたのが教育のあり方についてです。
 
教育がビジネス化してきているのが現在のご時世です。医学部は”医師養成学校”と化し、”資格”を求めて多くのヒトがお金を支払う。費用を出せば学びが得られる。
これってどうなのかなーと前から思っていました。自分が学んでいた時には気づかなかったけど、「与えられたカリキュラムだけを行って資格を得る」のが医学部の意味なら、なんだか味気ない気がします。
教育ってなんのためにあるのかな、とふと考えさせられました。
 
ビジネスのルールは「対価」です。
何かを提供したら何かが返ってくる。等価交換かはわからないけど、まず何かが返ってくるのがルールですよね。
僕らはそれを当たり前だと思っている。
だからこそ、「教師は給料をもらっているのだからそれ相応のコンテンツを提供するべきだ」という論理が成立します。
もちろん1つの正解だと思うし、自分が教育をする側とすれば頂いた分に答える責務もあると思います。
 
課題図書を読みながら腑に落ちたのは、ビジネスの前提です。
教育においてはこの論理の前にもう1つ前提があるんじゃないでしょうか。
教師=教える側に立つ、という選択をするからヒトは教師になります。
教えるのって時間も労力も必要だし、正直お金を稼ぐためならその分仕事してた方が稼げます。それでも教える側を選んだヒトがいるから、教育は成立するわけです。
 
では、なぜ僕は教える側に立とうと思ったのか。
僕の答えは「愛」です。
 
学習者、学生が医療職になった時に接する患者さん、この学習者が教える側になった時の生徒。
教育の先には様々なヒトが関わっている。
その関わるヒトが、少しでも良い方向へ進めるようにする。
そんな「誰かへの愛」が、教師を教師たらしめているのではないでしょうか。
 
だから教育はビジネスではない、とはっきり断言することはできません。
生まれてから資本主義に染まってきた僕の身体は、やっぱり時間をかけた分の対価を欲しがっている。
それでも前提が「愛」である以上、『対価が不十分だ』とか『こんな対価じゃ自分への評価が足りない』とかで憤慨するのはやめたほうがいいかなと思いました。
教育の本当の対価は、”学習者の中に何が残るか” ですよね。
与えて与えて「なんでこんなに教えてもらえるんだろ?」と考えて、自分で答えを形にする。
その出した答えが僕の思いに近ければ、これほど最高の対価はないんじゃないかと思います。
 
教育は「誰かへの愛」の上に成立している。気恥ずかしいけど、気づいたら大変腑に落ちました。
結局僕はヒトと関わるのが好きで、自分の喜びがヒトとヒトの関わりの中で生まれることを肌で感じている。
教育という関わりを通して、自分の愛が誰かに遺伝して繋がっていく。そんな思いが自分の教育への原動力と自覚しました。
これから迷いなく”教育者”へ舵を切ることができそうです。
来年はどうなっているでしょうか、明日の自分に期待したいと思います。
 
参考:
内田樹/街場の教育論