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山形県で総合診療医を目指しています。日々の振り返りをご笑覧ください。

読書会4「デスハラ」

久々に読書会の報告です。
今回は漫画を取り上げてみました。
お題の「デスハラ」はtwitterで公開されたものですので、リンクを貼らせていただきます。
https://twitter.com/yohakuyori/status/1137343205635121152
吉田より(@yohakuyori)先生が昨年公開された漫画です。
まずは皆さんご一読ください。

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今回も医学生3人と読書会を行いました。
議事録からいくつか個人的にビビッときた言葉を抜き出してみます

”死ぬことへの同調圧力が発生するなんて想像もしていなかった”
”ALSの嘱託殺人のニュースで、家族が自然と「安楽死したいよね」ということへの違和感を思い出した”
”自分らしい死に方という権利と義務が履き違えられているのかな”
”自殺という言葉に忌避感があるけど、安楽死はそうでもなかった。自分で死を選ぶという過程は一緒なのになぜだろう”
”「死にたい」が「助けて」の言い換えだとしたら、やっぱり自殺は認められるべきじゃないと感じる”
”もし自殺しようと思った人がいて、その人の中の理由に対し他人には何も言えないと思った。他人は結局その人の理由を理解できないと思う”

相当モヤモヤしているのが手に取れるようです。
読書会が終わってもモヤモヤが続いている参加者もいました。

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 今回、自分がこのお題を選んだ理由は、何か明確なメッセージを提示したいからではありません。
 生きること・死ぬことというのは、人生において最も難解なテーマのはずです。
 また、医者やその卵である医学生は仕事をしている間、ずっと向き合い続けるテーマでもあります。
 一方、生きること・死ぬことについて足を止めて考える機会は大学のカリキュラムとして設定されてはいません。ミクロに進化し続ける現代医学を総ざらいさせる大学教育の中で、死生観をゆっくり学ぶ時間は確保されなくなってしまいました。
 結果として医学生は”生きるとは何か” ”死ぬとは何か”を考える機会のないまま、死亡診断を下すことができる権利(=医師免許)を手にしてしまいます。

「寝たきり患者なんて医療費の無駄じゃないの」
「高齢者にここまで医療を行う必要とかないでしょ」
SNSを見れば、医者を名乗るアカウントの過激な言葉をいとも容易く見つけることができます。
これは死生観についてゆっくり考える時間もないまま日々の臨床に忙殺されてしまい、生きること・死ぬことが”どうでもいい日常茶飯事”と化した結果ではないかと自分は考えています。

 何が正しい医者の姿なのか、を論じるつもりはありません。
 ただ、医者になる前に・誰かの”生死”が日常となってしまう前に、感受性の柔らかな段階で足を止めて「死生観」について考えてほしいと思い、今回のお題を選びました。
 その結果、3人に何が生まれ何が残ったのか確かめることはしませんでしたが、できれば患者さんそれぞれの人生を見据えながら「生きること」「死ぬこと」に丁寧に向き合える医療職になってほしいな……なんて思っています。

読書会報告、お待ちしています!