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山形県で総合診療医を目指しています。日々の振り返りをご笑覧ください。

ワナビーを超えて

新年くらいは業務を一旦ほっぽり出して、貯めていた漫画を読んだり家事に勤しんだりしていました。
昨年大人買いした漫画の1つに「2.5次元の誘惑(リリサ)」があるんですが、これを読んだら改めて人生を見直せた気がしたのでその気付きをまとめておこうと思います。
 
(以下、大きなネタバレを含みますので読みたくない方はここでストップ)
 
 
 
 
18巻を読むなかで、個人的インパクトがデカかったのが淡雪エリカのエピソードです。
「ダメだリリサ 他人の視点(セカイ)で自分を生きるな」
「作るために作れ 自分のために作れ 作る理由はお前は決めるんだ」
彼女がワナビーから抜けるため、何者かになりたいがために「迷走」したからこそ、主人公に告げるセリフです。
(ジャンプラ週刊連載中にこの回を見て、衝撃のあまり3回くらい見返したのを思い出します)
 
このエピソードで初めて”ワナビー”という単語を知り、すぐに調べました。
Wikipediaの引用>
ワナビー (wannabe) は、want to be(…になりたい)を短縮した英語の俗語で、何かに憧れ、それになりたがっている者のこと。上辺だけ対象になりきり本質を捉えていない者として、しばしば嘲笑的あるいは侮蔑的なニュアンスで使われる。」
これを検索して意味を知った時、自分の人生に大きく当てはまることだと直感したのが忘れられません。
 
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2023年で義務年限を終え、気づけば人生の折り返しも見えてくるようになりました。
ありがたいことに「山形の総合診療」という大層狭い領域で一定の評価をいただく機会も増えてきたように思います。
そこまでの自分、つまり学生〜初期研修医〜義務年限中にはこんな世界は見えていませんでした。
 
学生の頃から、自分は”何者かになりたい”と思っていた気がします。そのなり方がよくわからなくて、右往左往しながら高校・大学と進んできました。
(今更ながらよくわかんなくてよかったと思うし、youtubeとかインターネットが未発達の時代でよかった。あの頃の衝動のままSNSyoutubeを触ってたらどうなってたか……)
大学時代は人前に立つことがその方法なのかもしれないと思い、バンド・演劇・合唱とひたすらにスポットライトの浴びる部活動に身を置いていました。もちろん音楽や演劇そのものが好きなのもあるけど、やはり視線を一身に集める感覚が自分の原動力だったことは間違いありません。
そういう意味では大学時代の自分は部活動を通して”ワナビー”をコントロールできていたのかもしれません。
 
大学が終わり、初期研修医になり、また自分は”何者なのか”見失うようになりました。
初期研修医が生きる世界は基本的に高次医療機関で、専門医だらけで、大学の医局の風が吹き荒れる場所です。そんな世界においては”何者か”を定義するために”専門医”や”論文”・”学位”がマジョリティです。進路の相談をすれば必ず専門医・学位・論文という言葉が返ってくるような場所でした。
ここで何も考えずに専門医や学位を取れる進路に進んでればもう少し生きやすかったんでしょうね。いろんな出会いや考えがあって、総合診療をやりたくなった自分は資格で自分を定義するのではなく、「やりたいこと」で自分を定義しようとしました。総合診療という分野を実践したい、という淡い思いを支援してくれる専門医制度も論文も学位も、当時の山形県には存在していませんでした。
 
この選択をしたことで、自分は「総合診療をやりたい」という自分の視点と「マジョリティな要素で定義することができない」という他人の視点(一般的な医師キャリアの視点)のギャップにしばらくもがき苦しむことになります。
3年目から7年目くらいまでは結構このギャップは強烈でした。キャリアは横で比較するなという金言はありますが、やはり比べてしまうもので自分と同世代が専門医を取ったりSNSでキラキラしているのを見るだけで腹の中に複雑な感情が渦巻いていた気がします。
総合診療・家庭医療の勉強を続けている自分が、何らかの見える形で定義されることはないという現実。
専門医をとった同世代と決して負けていないのに。自分はどうして評価されないのか。
山形県でなければ……、専門プログラムがあれば……、自分だって……。
自分の中のワナビーがずっと唸り続けていた時期でした。
 
これが薄らいできたのが、幸か不幸か大蔵村でのコロナ経験です。
何者かになりたいとかそんなことは横にして、ともかく村のために何かできることをしないといけない……という必死の8年目でした。これが予想外の評価を頂いて講演やメディア出演につながった9年目。
この2年間で対外的に評価されたことから、すっとワナビーの声が聞こえなくなりました。友人に愚痴を吐いた回数が少なくなったので、これは恥ずかしながら間違いないと思います。
”誰かに認められている”ことが見える形になっただけで何者かになれた気がするだなんて、今思うとずいぶん安い感情です。しかし、ここでワナビーに振り回されなくなったことで、ようやく最初のセリフが染みてくるようになりました。
 
「ダメだリリサ 他人の視点(セカイ)で自分を生きるな」
「作るために作れ 自分のために作れ 作る理由はお前は決めるんだ」
 
大蔵村の勤務が終わりに近づいてきたあたりに、専門医を改めて取りに行く選択肢もあったはずです。
でも、自分はそうはしなかった。
自分のやりたいことは「自分のような思いを後輩にさせないこと」であり、「総合診療を山形県内に広げるための組織づくり」です。
振り回されたワナビーの背中から結果的に降りることができて、本当に大事な自分の視点で人生を考えた時にやりたいと思ったのはこの2点でした。
10年目から今の職場に来て約2年、やりたいことを正中に捉えて突き進んだ結果は少しずつ実り始めています。
 
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振り返ると、ワナビーに取り憑かれて人生を右往左往していた時期もありましたが、それでも自分なりにもがいて進んできたんだと明確に言えそうです。喉元すぎた今でも、あの頃は人生の選択肢をどう進めればいいのか・これからどうしたらいいのか悩んでいた時期はしんどかった。
漫画で知った「ワナビー」という単語から、ようやく自分の人生を苦しめていた何かを言語化できたような気がしました。
 
一方で、自分はたまたまワナビーの背中から降りることができて、肩の力を抜いてまっすぐ荒野を走れるようになっただけ、とも思えます。
自分を認めてあげられず、苦しんでいる人はたくさんいるでしょう。いろんな偶然がなければ、自分だって今でもその中の1人であったはずです。だから、この話は決して一般化して誰かに転用できる話ではないのだと思います。
 
無理くり一般化するならば。
”何者かになろう”としているあなたに何かを送るなら、やはり上記のセリフに尽きます。
「ダメだリリサ 他人の視点(セカイ)で自分を生きるな」
「作るために作れ 自分のために作れ 作る理由はお前は決めるんだ」
自分の”好き”を見つめて、誰に何を言われてもしがみついていられる”好き”にしがみつき続けること。
”何者かになろう”として続けるんじゃなく、”好きだから” ”自分がこうしたいから”続けること。
他人に何を言われようとも、この原動力なら人生負けはしないんじゃないかと思います。
 
これからも、自分の人生を自分の視点で生きていく旅は続きます。
やりたいこと・目指したいことはきっと年次を経て変わっていくと思うけど、願わくばこれからも自分の”好き”に気づいてそれだけを正中に見据えて人生を進められますように。
こんな気付きを元旦に得られたことに感謝して、2024年を始めていこうと思います。