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山形県で総合診療医を目指しています。日々の振り返りをご笑覧ください。

シネメデュケーションをオンラインでやるには

久々の教育ネタです。
シネメデュケーションとは、シネマ+メデュ+エデュケーション=映画で行う医学教育という意味です。
詳細は孫先生の論文をご確認ください。
 
さて、このシネメデュケーションを受けたことはあるものの、なかなか実践する機会はありませんでした。
だって映画見ないんだもの。
なのでちょっと手法としては苦手としていたのですが、今回オンラインで試す機会があったのでその備忘録を作っておこうと思います。
 
オンラインでシネメデュケーションを行うためには、全員で同期させながら動画を見ることが必要です。
ちなみにオンライン会議はZoomを使って行いました。
動画を共有するために目をつけたのがAmazon primeのウォッチパーティ機能です。
この機能を使えばprime videoに格納されている映画やTV番組を同期させながら視聴することができます。シネメデュケーションを行うために考えなければいけないのが著作権です。prime videoの本機能であれば、公的に共有が可能なツールですので見れる動画は著作権の問題はクリアできています。やったぜ。
しかし、問題は参加者全員がprime会員である必要があること。今回の参加者はprime会員でない方がいたのでこの手は使えませんでした。残念。
 
prime videoを自画面で再生して、それを共有しようとか考えちゃダメですよ。それって著作権とかコンテンツの侵害ですからね!
ちなみに、この操作をしようとするとprime videoの画面がブラックアウトするようになっています。さすがです。
 
そうなると「すでに公的に共有されている状態の動画」を探す必要があります。
そこで出てくるのがyoutubeですね。助かる。
自画面でyoutubeを再生→Zoomで画面共有というステップで、youtubeの動画を同期させながら共有することができます。
問題としては、Zoomを挟むことで数秒の時差がでうること・相手の回線状況では動画の再生ができなくなる場合があることです。今回の参加者でも1人ネット回線が不安定な方がおり、動画の同期ができませんでした。その方はスマホのGBに余裕があるとのことで、youtubeリンクを送って手元のスマホで見てもらうことで対応しました。
 
……ということで、オンラインでシネメデュケーションを行うための答えとしては「youtubeを画面共有」となりました。
 
繰り返しになりますが、シネメデュケーションの前提条件として「コンテンツの権利を侵害しないこと」です。
一方で、どのラインだとコンテンツの権利侵害になるのかはグレーゾーンが広がっています。
動画を購入してオンサイトで複数人で共有する、これは良さそう。
でもそれがお金を払って参加するセミナーで行われたらアウトっぽい。
動画を購入して自分で編集した動画をオンラインで共有するのは? うーーん、アウト寄りな気がする。
ここら辺は毎回注意していくことが最も大事なのかなと思いました。
 
参考に今回自分がどう考えたか。
今回の動画教材は横浜市が提供しているACPの啓発動画を使いました。
こちらはyoutubeで無料公開されており、市町村が公開しているのであればセーフかなぁ……と判断しました。
が、完全にセーフかどうか自信がありません。(多分大丈夫だとは思うんだけど)
ここで記載することで横浜市に怒られたり関係者に注意されたら、きちんと謝罪したいと思います。
良い動画教材ですので、興味のある方がいればぜひご覧ください。

加速し続ける時間で思うこと

ちょっと前に正月だと思ったら、あっという間にバレンタインが近づいております。
時は加速しているのだろうか。この調子だと気づいたら定年退職していそうな勢いです。
 
この「時間がない」問題は社会人になってから常々感じていることではありますが、年齢を経ることに深刻化しているような気がしています。24時間は平等なのにどうしてだろう。
最近自分の中でぼやぼや思うことは以下のあたりです。
 
・見える世界が広がって、マクロな世界の情報量の多さに流されている
子供の頃は自分の半径1メートルくらいが世界の全てでした。
今はどうか考えてみると、下手すると在宅でカバーしている半径16キロメートルくらいまでは余裕で認識しているような感じです。ニュースを見れば地球の裏側の情報も入ってくるし、ともかく大人になるにつれて情報量の多さに辟易とする時すらあります。
同じ時間を過ごしていても、その時間の中に溢れている情報量の多さが時を加速させているのではないでしょうか。
(そうなると山籠りして世界と断絶すれば、時間は一気に緩やかになるのかもしれない)
 
・捻挫しながら走り続ける必要性
仕事がどんどん舞い込んできて、「一息ついたらやろう」と思った仕事はあっという間に埃に塗れてしまう。この2年弱、組織開発に向き合っているとこの感覚で日々を過ごしています。
捻挫したからといって足を止めてゆっくり治している時間はなくて、ともかく走り続けながらなんとか捻挫を治していくしかない。こんな例えをどこかで読んで、大変腹落ちしたのを覚えています。
自分の24時間に膨大な業務量を詰め込んでいるとすれば、そりゃあ時間なんてどんどん足りなくなるわけです。
 
・人生をハンドリングし続けるほかない
タイムマネジメントも然り、マルチタスクも然り、仕事も情報量も降り注いでくるとすればともかくそれを乗りこなしていくしかありません。
そうなると、この加速する時間軸の中で「いかに自分らしく生きられるか?」というのが本当は問われているのではないでしょうか。
その答えのためには「自分のやりたいことは何か」「自分の人生は何のために浪費するのか」という、これまた根源的な問いに辿り着く。これは人生を自分の進みたい方向にハンドリングすることと一緒なわけで、例え不確実な事態や非常事態が起きて時間や仕事が管理できなくなっても大まかな人生の方向がきちんとハンドリングできていれば致命傷にはならないんじゃないかと思うわけです。
時間はこのまま加速し続けると思われるので、その中で押し流されてしまわないように懸命に自分の人生をハンドリングし続けていくことが求められている。もはやそんなところまで考えるようになりました。
 
ちなみに、今のところやりたい仕事をやってるし、半径1メートルには幸せが溢れているので、今のところ順調だと思います。
さあ、新年度に向けて助走の時期です。どんどん頑張ろう。

ワナビーを超えて

新年くらいは業務を一旦ほっぽり出して、貯めていた漫画を読んだり家事に勤しんだりしていました。
昨年大人買いした漫画の1つに「2.5次元の誘惑(リリサ)」があるんですが、これを読んだら改めて人生を見直せた気がしたのでその気付きをまとめておこうと思います。
 
(以下、大きなネタバレを含みますので読みたくない方はここでストップ)
 
 
 
 
18巻を読むなかで、個人的インパクトがデカかったのが淡雪エリカのエピソードです。
「ダメだリリサ 他人の視点(セカイ)で自分を生きるな」
「作るために作れ 自分のために作れ 作る理由はお前は決めるんだ」
彼女がワナビーから抜けるため、何者かになりたいがために「迷走」したからこそ、主人公に告げるセリフです。
(ジャンプラ週刊連載中にこの回を見て、衝撃のあまり3回くらい見返したのを思い出します)
 
このエピソードで初めて”ワナビー”という単語を知り、すぐに調べました。
Wikipediaの引用>
ワナビー (wannabe) は、want to be(…になりたい)を短縮した英語の俗語で、何かに憧れ、それになりたがっている者のこと。上辺だけ対象になりきり本質を捉えていない者として、しばしば嘲笑的あるいは侮蔑的なニュアンスで使われる。」
これを検索して意味を知った時、自分の人生に大きく当てはまることだと直感したのが忘れられません。
 
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2023年で義務年限を終え、気づけば人生の折り返しも見えてくるようになりました。
ありがたいことに「山形の総合診療」という大層狭い領域で一定の評価をいただく機会も増えてきたように思います。
そこまでの自分、つまり学生〜初期研修医〜義務年限中にはこんな世界は見えていませんでした。
 
学生の頃から、自分は”何者かになりたい”と思っていた気がします。そのなり方がよくわからなくて、右往左往しながら高校・大学と進んできました。
(今更ながらよくわかんなくてよかったと思うし、youtubeとかインターネットが未発達の時代でよかった。あの頃の衝動のままSNSyoutubeを触ってたらどうなってたか……)
大学時代は人前に立つことがその方法なのかもしれないと思い、バンド・演劇・合唱とひたすらにスポットライトの浴びる部活動に身を置いていました。もちろん音楽や演劇そのものが好きなのもあるけど、やはり視線を一身に集める感覚が自分の原動力だったことは間違いありません。
そういう意味では大学時代の自分は部活動を通して”ワナビー”をコントロールできていたのかもしれません。
 
大学が終わり、初期研修医になり、また自分は”何者なのか”見失うようになりました。
初期研修医が生きる世界は基本的に高次医療機関で、専門医だらけで、大学の医局の風が吹き荒れる場所です。そんな世界においては”何者か”を定義するために”専門医”や”論文”・”学位”がマジョリティです。進路の相談をすれば必ず専門医・学位・論文という言葉が返ってくるような場所でした。
ここで何も考えずに専門医や学位を取れる進路に進んでればもう少し生きやすかったんでしょうね。いろんな出会いや考えがあって、総合診療をやりたくなった自分は資格で自分を定義するのではなく、「やりたいこと」で自分を定義しようとしました。総合診療という分野を実践したい、という淡い思いを支援してくれる専門医制度も論文も学位も、当時の山形県には存在していませんでした。
 
この選択をしたことで、自分は「総合診療をやりたい」という自分の視点と「マジョリティな要素で定義することができない」という他人の視点(一般的な医師キャリアの視点)のギャップにしばらくもがき苦しむことになります。
3年目から7年目くらいまでは結構このギャップは強烈でした。キャリアは横で比較するなという金言はありますが、やはり比べてしまうもので自分と同世代が専門医を取ったりSNSでキラキラしているのを見るだけで腹の中に複雑な感情が渦巻いていた気がします。
総合診療・家庭医療の勉強を続けている自分が、何らかの見える形で定義されることはないという現実。
専門医をとった同世代と決して負けていないのに。自分はどうして評価されないのか。
山形県でなければ……、専門プログラムがあれば……、自分だって……。
自分の中のワナビーがずっと唸り続けていた時期でした。
 
これが薄らいできたのが、幸か不幸か大蔵村でのコロナ経験です。
何者かになりたいとかそんなことは横にして、ともかく村のために何かできることをしないといけない……という必死の8年目でした。これが予想外の評価を頂いて講演やメディア出演につながった9年目。
この2年間で対外的に評価されたことから、すっとワナビーの声が聞こえなくなりました。友人に愚痴を吐いた回数が少なくなったので、これは恥ずかしながら間違いないと思います。
”誰かに認められている”ことが見える形になっただけで何者かになれた気がするだなんて、今思うとずいぶん安い感情です。しかし、ここでワナビーに振り回されなくなったことで、ようやく最初のセリフが染みてくるようになりました。
 
「ダメだリリサ 他人の視点(セカイ)で自分を生きるな」
「作るために作れ 自分のために作れ 作る理由はお前は決めるんだ」
 
大蔵村の勤務が終わりに近づいてきたあたりに、専門医を改めて取りに行く選択肢もあったはずです。
でも、自分はそうはしなかった。
自分のやりたいことは「自分のような思いを後輩にさせないこと」であり、「総合診療を山形県内に広げるための組織づくり」です。
振り回されたワナビーの背中から結果的に降りることができて、本当に大事な自分の視点で人生を考えた時にやりたいと思ったのはこの2点でした。
10年目から今の職場に来て約2年、やりたいことを正中に捉えて突き進んだ結果は少しずつ実り始めています。
 
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振り返ると、ワナビーに取り憑かれて人生を右往左往していた時期もありましたが、それでも自分なりにもがいて進んできたんだと明確に言えそうです。喉元すぎた今でも、あの頃は人生の選択肢をどう進めればいいのか・これからどうしたらいいのか悩んでいた時期はしんどかった。
漫画で知った「ワナビー」という単語から、ようやく自分の人生を苦しめていた何かを言語化できたような気がしました。
 
一方で、自分はたまたまワナビーの背中から降りることができて、肩の力を抜いてまっすぐ荒野を走れるようになっただけ、とも思えます。
自分を認めてあげられず、苦しんでいる人はたくさんいるでしょう。いろんな偶然がなければ、自分だって今でもその中の1人であったはずです。だから、この話は決して一般化して誰かに転用できる話ではないのだと思います。
 
無理くり一般化するならば。
”何者かになろう”としているあなたに何かを送るなら、やはり上記のセリフに尽きます。
「ダメだリリサ 他人の視点(セカイ)で自分を生きるな」
「作るために作れ 自分のために作れ 作る理由はお前は決めるんだ」
自分の”好き”を見つめて、誰に何を言われてもしがみついていられる”好き”にしがみつき続けること。
”何者かになろう”として続けるんじゃなく、”好きだから” ”自分がこうしたいから”続けること。
他人に何を言われようとも、この原動力なら人生負けはしないんじゃないかと思います。
 
これからも、自分の人生を自分の視点で生きていく旅は続きます。
やりたいこと・目指したいことはきっと年次を経て変わっていくと思うけど、願わくばこれからも自分の”好き”に気づいてそれだけを正中に見据えて人生を進められますように。
こんな気付きを元旦に得られたことに感謝して、2024年を始めていこうと思います。